2014年8月13日水曜日

タクシーストーリー第14話~「怖い話」

初乗務の日は何が起こっているのか分からないまま過ぎて行ったが、

1週間ほど経つと、分からないなりに

「分からない」ということがためらいなく言えるようになって、

1ヶ月ほど経つと、対処の方法というか、

要するに乗客に聞いたら良い

ということが分かってきた。

もちろんタクシーなのだから、道を良く知っていなければいけないのは当然であるが、

ほとんどの乗客は自分の行き先を知っているもので、

上手に情報を引き出すことが重要であり、

うまくコミュニケーションが取れないと、

「タクシー運ちゃんのくせに道知らへんのか!」

となる。

しかし結局はこういう客は「分かります」と言っても、

「お前『分かる』言うたのに分かってへんやんか!」

どんな道を通っても突っ込んでくるものであることが分かってきた。

要するに、「コミュニケーション」であって、

「お客さんよく道知ってはりますねぇ・・・」

「この道から行けるんですかぁ、知りませんでした」

なんて持ち上げたら、ご機嫌になったりするものである。

もちろん、そんなことが分かるのは何年か先のことだが・・・

そんなことが「少しだけ」分かり始めた6月のある日のことだった。

日も長くなってきた頃だが、19時を過ぎてさすがに日も陰り始めた松屋町筋で、

若い女性が手を挙げていた

夕方の大阪は北向きは渋滞することが多く、南向きに走った方が良い

ということを先輩から教えてもらえるほどに車庫(会社)でもコミュニケーションを取れるようになっていた。

車を停めて、ドアを開けると女性が乗り込んできた

黒いブラウスと膝下までのジーンズにカジュアルなサンダル履きの女性は、髪が黒く・・・

髪が黒いのは当たり前だが、それにしても「黒いな・・・」と思えるほど鮮やかに黒く、

吸い込まれるような大きな瞳をしていた。

「あの・・・どちらへ行かれますか?」

美人というわけでもなかったが、妙にドキドキしたのは女性の胸が思ったより大きかったことだけが理由ではなさそうだった。

「あの・・・神社へ・・・神社へ行ってもらえますか?」

「神社??どちらの神社ですか?」

「分からないんですけど・・・」

「分からない??」

女性は一枚の写真をバッグから差し出した。


「この神社なんですけど」 

俺は写真をじっと見た。

タクシー運転手なら写真だけでも分かるものなのか・・・

いや、分かるわけがない

しかも、どう見ても大阪市内の神社には見えない。

「ちょっと写真だけでは分かりませんけど・・・」

「そうですか・・・とりあえず走ってもらえますか」

「とりあえず・・・まっすぐ南向きに走ったらよろしいですか?」

「はい」

少しの間会話もなく走った。

基本的に客から切り出さなければ、話はしない方が良いということも分かってきた頃だった。

「タクシーとか、長いんですか?」

女性の大きな瞳がバックミラーに映って、思わず目をそらした。

「いや、実はまだ乗り始めたばかりの新人なんやけど・・・」

「そうなんですか・・・」

「あの・・・結局どこへ行ったら良いんかな?」

年下に見える女性に自然と口調もタメ口になっていた。

「あの・・・わたし探してるんです」

「探してる?何を?」

女性が下を向いたので、自分もバックミラーに目を向けた。

「わたしの子ども・・・」

「子ども?」

背筋に冷たいものが走った。

「さっき見せたあの写真の神社にいる・・・はずなんです」
 

2014年7月29日火曜日

タクシーストーリー第13話~初乗務

側乗研修を終えて、いよいよ初めての乗務を迎えた。

4月21日、7時の点呼を終えて、IDカードを通して、

運転席に座った

スーパーサインの裏に乗務員証をセットした。

自分の中で、何かのスイッチが入った気がしたが、それが何のスイッチなのか自分でもわからなかった。

ゴールデンウィーク前だったが、朝から何となく気温の高い日だった。

車庫を出ると、とりあえず(大阪新人の登竜門と言われる)阪急3番街に向かった。

3番街の入り口は並ぶこともなく、ロータリーに入れた。

少しホッとした

3番街ロータリーが満車だったときは、手前のヘップ前などに並ばないといけないのだが、朝の梅田周辺は戦場で、新人が闘うには大きなストレスを感じるところだった。

ロータリーに入ると、気持ちを落ち着かせるのに少し時間がかかった

地図を見て、いろんな行き先(天六、心斎橋、なんば・・・)とルートをイメージする。

後ろからクラクションを鳴らされた。

前を見ると3台分ほどのスペースが空いている。

慌てて、車を前に詰めるといつの間にか先頭から2台目になっていた。

朝の梅田は動きが早い。

前の車に女性客が乗った。

いよいよ花番(待機先頭、鼻番とも言う)である

あっという間にここまで来たが、

ここからは長かった・・・

待てども、待てども客は乗ってこない

ここまで来たら、早く乗ってほしい

花番の重圧、ストレスはすごいものがあった

時計を見ると、実際は5分ほどしか待っていなかったのだが、感覚的には1時間ほども待っていた気がした。

「コン、コン」

前方ばかり見ていたが、いつの間にか後ろからドアをノックされた。

慌ててドアを開けると、客がのけぞっているのがフェンダーミラーにやけに大きく映っていた。

「何すんのや!あぶないなぁ」

「どうも・・・申し訳ありません・・・」

乗ってきたのは、40代前半に見える男性だった。

身長は170センチ前後、痩せ型で、頭はボサボサだったが、妙に威圧感があった。

後で考えると、業界(テレビ)関係者だったんやろか。

「・・・あの、どちらへ行かれますか?」

「インターナショナル」

「・・・インターナショナルですか?」

散々イメージして復習した、「想定行き先」にはない響きだった。

「あの・・・空港の国際ターミナルのことですか?」

「あんた若いのに中々(嫌味)言うやん。阪急の乗り場で『インターナショナル』言うたら決まってんやろ!阪急インターナショナルや!はよ行け!急いどんのや」

客は半分キレていた。

なんでこの人、行き先確認しているだけでキレるんやろ。

このときの俺には分からなかった。

「阪急インターナショナルと言うと、そこの茶屋町のですか?」

「行けへんのか?行けへんならはよ言ってくれよ。とぼけやがって。こっちは急いどんねん。乗車拒否でタクセンに電話すんぞ」

「いえ・・・すみません。分かります。行きます。近い方がありがたいです」

俺はアクセルを踏んだ。

「いちいち引っかかんなぁ・・・あんた嫌味言っとんのか、天然なんか分からへんな」

芝田の信号へ出て右折、済生会(病院)前を右折、すぐに右手に阪急インターナショナルが見えた。

「こちらですね!」

初めての客を、目的地に送ってきた。

達成感から自然とテンションが上がった。

「・・・『こちら』ですけど、こんな混んどる時間にこっちからどないして(ホテル車寄せに)入んねん。ええ加減にせえよ」

左折進入がタクシーの基本であることは研修では習ったものの、頭から消えていた。

※筆者は明石家さんまさんを乗せて、(梅田からではないが)同じ失敗をしたことがある。

この場合は、(どちらにしてもワンメーターは変わらないので)芝田1信号を右折、一方通行から新御堂側道へ入り、鶴野町北信号をまた左折、このルートで行けば、ホテルに「左折」で入ることが出来る。

「あの・・・どう致しましょう・・・実は今日初めて(タクシーに)乗る新人なんです」

「もうええわ!ここで降りるわ。地下から向こう渡れるから」

「申し訳ありません」

「ええ、ええよ、もう。でもな、お兄ちゃん。新人なら新人、分からんなら分からん、もっと早く言わなあかんで」

「はい・・・どうもすみません」

「まあ、遅かったけどな、言ってくれたら悪い気持ちはせんわ。これ少ないけど取っとき。今日のこと忘れんとがんばりや」

 メーターは660円で止まっていた。

紙幣がコンソールボックスの上に置かれていた。

俺は屈辱感からしばしその場所に停まっていた。

息をついた。

次行こう、

前行こう

紙幣を上着のポケットに入れようとして、手が止まった。

1万円札だった。


2014年7月15日火曜日

タクシーストーリー第12話~ここからはじまる

地理試験は思いのほか難しかった。

大学受験を始め、いくつかのIT関係の資格試験を難なくこなしてきた自分だったが、

意外と身近にあることが分かっていないことに気づかされた

絶対に落ちたくなかったから、猛勉強した。

それでもイージーにスルー出来なかった。

こんな風に横文字を使える自分は何の役にも立たない・・・

合格して心から嬉しかったのは初めてかもしれない

翌日会社へ戻り、チケットやメーターの取扱い等の研修を受けて、写真を撮って、

乗務員証を渡された

明日から本当にタクシーに乗る。

本当にこれで良いんやろか・・・

今まで何度も考えていたことを、今更とは思いつつもまた考えざるを得なかった。

事務所を出て、帰ろうとしたとき見覚えのある女性とすれ違った。

「あれ?」

「あ・・・吉林さん?」

教習所で一緒だった女性だった。 同じ会社に入ると聞いていた。

「久しぶり、研修終わったん?」

「あ、あぁ・・・そっちはこれから?」

「うん、ちょっと前の仕事のクロージング(引き継ぎ)とかあって」

「あのさぁ・・・ほんまにタクシー乗るつもり?」

「 どういうこと?」

「いや、あの・・・タクシーってなんか、イメージっていうか・・・吉林さんみたいな(若くてインテリっぽい)女性が乗るのって勇気いるのかな、って思ったりして」

「はぁ・・・イメージね。確かに、そういうのはあるかもしれないけど・・・わたしも偉そうに言うほど社会経験積んできたわけじゃないけど、仕事ってある意味『イメージを変えていくこと』なんかなぁと思うんやけど」

「『イメージを変えていくこと』・・・(『この日本・・・世の中を変えたい』???)」

確かに、あるもの・・・それが商品であってもサービスであっても、それを売ろうとしたとき、全く同じものを売り続けていたら、いずれ消費者に飽きられるか、または競合企業にシェアを奪われていく。

だから何かを変えなければいけない

それは製品やサービスそのもの(の質を高めること)かもしれないし、消費者への伝え方(広告)を変えたり、提供する場所を増やしたり移動したり、それも出来なければ価格を変えたり(下げたり)・・・確かにそれら全てがイメージのトランジションかもしれない(もう横文字いいから)。

「そう、もしそうだとしたらタクシーに乗ることって『イメージを変える』壮大なプロジェクトのような気がして」

「『壮大なプロジェクト』・・・」

「わくわくしない?」

俺が今まで働いてきたIT業界は「イメージ」というか既成概念を変えることに世界中の多くの秀才が日々凌ぎを削っている、その中で自分が存在感を示すのは容易なことではない。

仕事をすること自体が難しくなっている

しかしタクシーならどうだろう

吉林さんのような若くてきれいな女性でなくても、俺のような男でも、「若い」というだけでクライアント(顧客)にインパクトを与えることが出来る。

何より今までと大きく違うのは、

目の前の利用者とマンツーマンで仕事が出来る

ことである。

ちょっとしたサービスで、気の利いた会話で、それを積み重ねることで、目に見える形で仕事が出来る。

「地理試験どうやった?」

性格悪いと思っていたこの女性が、子どものようないたずらっぽい笑みを浮かべて聞いてきた。

「ちょろかったよ」

俺も笑った。

「仕事楽しんでね」

「サンキュ」

親指を立てて別れた。

駅前の焼き鳥屋に一人で入った。

ビールがうまかった

ここから数々のドラマがあることは、何となく予想出来た。


2014年6月26日木曜日

タクシーストーリー小休止~地理試験について(大阪編)


地理試験とは何か・・・(筆者がワールドカップに夢中になってストーリーが滞ってるらしいやんか)

地理試験は全国のタクシードライバーに義務付けられているものではない。

現在は「特定指定地域」とされる東京、大阪、 神奈川でのみ実施されているテストだが、

2015年10月(消費税10%移行時)には全国13の「指定地域」に義務付けが広げられると言われている。

ちなみに13の指定地域とは、

1. 札幌
2. 仙台
3. さいたま
4. 千葉
5. 東京
6. 横浜
7. 名古屋
8. 京都
9. 大阪
10. 神戸
11. 広島
12. 北九州
13. 福岡

この中で現在も行われている大阪の地理試験を簡単に説明すると、

大問3、小問40で、

問題1の25問は○×問題

大阪タクシーセンターのHPから抜粋の例題としては、

 ・NHK大阪放送局は本町通り沿い、中央区大手前にある

 ・黒門市場は、日本橋1交差点の南東、中央区日本橋にある

・大阪府警察本部門真運転免許試験場は、国道163号の南、門真市一番町にある

・新世界のシンボルとして有名な通天閣は、西成区天下茶屋にある

・シェラトン都ホテル大阪は、上本町6交差点の南東、天王寺区上本町にある

・大阪家庭裁判所は、中崎1交差点の南、北区中崎にある

・セントレジスホテル大阪は、谷町筋沿い、中央区谷町にある

・フェスティバルホールは、四ツ橋通り沿い、北区中之島にある

問題2の5問は記述式

・御堂筋と長堀通が交わる交差点は( )である

・なにわ筋で道頓堀川に架かる橋は( )である

そして問題3は10問、指定された場所を地図上から選ぶ問題

・ホテルニューオータニ大阪

・大阪証券取引所

・国立病院機構大阪医療センター


大阪在住の一般の方、いくつ分かりましたか?

合格基準が80%と聞いて、どう思いますか?

大阪でタクシーに乗っている全ての運転手がこうした試験をバスしています。

それでもあなたは、

「タクシー運転手は道を知らない」と言えますか? 

 弁護士や医者だって、大変な試験を通っても最初(新人の頃)は何が何だか分からないもんですよ。

経験を重ねる中で、いずれ顧客に「金には変えられない」価値を与えていく。

販売員だろうと、コンビニの店員だろうと、清掃業者だろうと、みんな同じだと思いますよ。

安ければ、「それなり」の価値がある

それでもあなたは、

「運ちゃん、もっと(料金)安くせい」と言えますか?
 

2014年6月5日木曜日

タクシーストーリー第11話~地理試験(1)

会社で3日間の地理研修を経て、

4日目は事故対策機構での適正診断、

その後はタクシーセンターでの3日間の研修、

このタクセン3日目に難関と言われる地理試験があり、

会社に戻って再び3日間の最終研修、

そして晴れて乗務デビューという流れになっている。

会社によっては、適正診断やタクセン研修を修了してから会社での研修をするところもあるようだが、

幸いにも、この阪北交通はタクセン研修の前に路上教習をさせてくれるので、ある程度の準備をした上で地理試験に臨むことが出来る。

タクセン研修へ向かう前に事務所に入ると、珍しく所長が顔を出していた。

面接の際に大きな顔をして座っていた、神経質そうで小柄な「所長らしき」男性はやはりこの営業所のトップで、佐藤という個性ある性の持ち主だった。

佐藤所長は、この数日見る限りではほとんど事務所にはいないようだった。

噂によると「得意先まわり」で忙しいようだが、どうやら遊戯場(パチンコ屋)での「営業」に力を入れているらしい。

この日の朝は事故処理のために通常より早くに呼び出されたらしく、機嫌が悪かった。

「おう、新人か。・・・あんた名前何て言ったかな」

いきなり指をさされたので、

「橋本です」

と答えると、

「ごめんな、ありふれた名前で覚えられへんねん。今日からタクセンか」

「・・・はい」

名前の「ありふれ度」では完敗やろと思いながら、俺は答えた。

「なんでうちがタクセン教習の前に内部研修やるか知ってるか?」

「やはり地理試験前に一通りの地理研修をさせて頂いたのかと・・・」

佐藤所長は顔の前で大きく手を振った。

「違う違う。3日間な、とりあえず人間見させてもらってんねん。

ここで使いもんならへん奴なら研修費払うのもったいないやろ。

早いとこ見切りつけさせてもらうねん」

地理試験の準備として路上教習をさせてもらってると良心的に受け取っていたので、俺は愕然として言った。

「・・・とりあえず第一関門はパスしたということですか」

所長は老眼鏡をクイっと上げながら、嫌な笑いを浮かべた。

「ここんとこ忙しくて、あんたらのことはほとんど見れてへんからな。

山岸(主任)なんかに任せてたら、どいつも『良い人材です』と来るから困ってんのや。

あいつも難しいことばっか抜かしてかっこつけてるけど、業界のことは何もわかってへんペーペーやからな。

『タクシーの将来は明るいですよ』

なんて平気な顔して言いやがる。

『踊る大捜査線』かなんかの見すぎやねんな」

俺には「踊る大捜査線」と「タクシーの将来」とのつながりが良くわからなかったが、

何となく言いたいことはわかった。

「山岸主任にはいろいろと教えてもらってます」

あまり主任に対する肯定的な評価は口にするべきではないと直感ではわかっていたつもりだが、正直な思いが口に出てしまった。

「ケッ、またかよ・・・あんな奴の言うこと信じてると痛い目に遭うで。

タクシーなんていうのは、職業人の地獄や。

ダメ人間の集まりやで。

あんたも若いし、今はまともな考え持っとるかもしれへんけど、この世界に入ったらだんだんと荒んでく。

俺はそういう奴らを嫌っちゅうほど見てきてんねん」

主任の言う「楽しい世界」と、この感じ悪い所長の言う「荒んだ世界」、この業界には現在その両方が共存しているのかもしれない。

「あの・・・時間なんで(タクセンに)行ってきます」

「おう、がんばって来いよ」

「ありがとうございます」

事務所を出ようとしたとき、所長に呼び止められた。

「おい、ちょっと待てよ。あっちでは地理(試験)もあるんやろ」

「はい」

「中之島に橋がいくつかかってるか知ってるか」

「・・・橋ですか。10くらいですか」

「西の北側から船津橋、上船津橋、堂島大橋、玉江橋、田蓑橋(たみのばし)、渡辺橋、御堂筋にかかる大江橋、天神祭りの鉾流橋(ほこながしばし)、こっから南北突っ切りで難波橋、天神橋、天満橋は中之島にはかかってへん・・・戻って、 栴檀木橋(せんだんのきばし)、淀屋橋、肥後橋、筑前橋、常安橋(じょうあんばし)、土佐堀橋、湊橋、端建蔵橋(はたてくらばし)、車が通れる橋だけで18ある。覚えときな」

「・・・」

「安心しろ。 栴檀木橋なんて出ることないから」

「・・・はたてくらばし・・・は出ますか」

「出ないよ」

所長は笑った。



2014年5月28日水曜日

タクシーストーリー第10話~研修(3)プライド

「『プライド』という話をしましたが・・・あの(車を)出してください。こんなところに行灯つけた車をいつまでも停めておくわけにはいきませんから」

坂井さんは右にウインカーを下ろした。

「・・・どちらへ行きます?」

「任せますよ。好きなように走ってください」

坂井さんはウインカーを戻して、ハザードランプを点けた。

「任せるって・・・」

「ハハハ、わたしは実際の乗務で何度かこれを言われたことがあります。初めて言われたときは戸惑って、あなたと同じ対応をしました」

主任は身を乗り出して、タクシーメーターをポンと叩いた。

「しかしそれでこのように停まっていたらそれで終わりです。金を請求することは出来ない。走ってなんぼなんですよ。商売なんです。

『任せます』と言われたら、

『わかりました』と答えてどんどん走ったら良い。

2度目のときから、わたしはそうしました。

そうするとね、会話が弾むんですよ。そういうおかしな人は、いろんな面白い話を持ってる」

「そんなこと・・・」

「あるんですよ。タクシーに乗ってると、いろんな奇妙な人に出会う。

映画『タクシードライバー』では、不倫している妻を追いかけている乗客がメーター倒したまま現場のマンションにずっと停まってたみたいなシーンがありましたけど、

『そんなこと・・・』が本当にあるんですよ。

1万円のチップを平気で置いていく客とかね」

「はぁ・・・」

坂井さんはハンドルを両手で握ったまま、固まっていた。

「ただしね、とりあえずは走らないと何も起こらない。それがこの仕事なんです。

ちなみに(映画『タクシードライバー』の舞台)ニューヨークのアイドル1分のタクシー料金は40セント、1マイル(1.6キロ)走れば2ドルですからね。5倍稼げます。

とにかく走りましょう」

「わかりました」

坂井さんは、再びウインカーを下ろした。

「毎日いろんなことがありますから、それをどう捉えるかでも変わってきますけど・・・

ある若者がね、就職先がなくてこの世界に入ってきたんですよ。

彼はある程度名の知れた大学を出ていて、

入ってきたときは、『就職先が見つかるまで』なんて言ってました」

「『腰掛け』ですか」

後部座席から俺が首を突っ込んだ。

「そういうことですよね。

それでも彼は、ものすごく勉強してましたね。

1年ほどで周辺の地理知識はかなりのレベルに達してました。

それでも、『この仕事は難しいですね。言われた通り黙って走るだけなら何とかなりますが、乗客の"荷物”を運ぶのは堪えます。重過ぎて持ちきれないときもあって・・・』

と言っていました。”荷物”ってわかりますか?」

「トランクサービスのことですか」

俺が答えると、

「違いますよ。彼が言っていたのは、物理的な荷物ではなくて、乗客の人生の中で背負っている”荷物”ということですよね。

そんなものは見えないふりをして・・・物理的な荷物も見えないふりをする運転手もいますが・・・乗務をするのと、そこに突っ込んでいくのとでは、同じ仕事でもその難易度に大きな違いが出てくるんですよ」

「見えない”荷物”ですか」

「そうです。映画であの不倫妻を追う男は何故トラヴィスと車内で『いっしょに』その現場を見なければならなかったのか。客観的にはわかりますけど、そこにいる『重さ』を想像してみてください。

金じゃないんですよ。いや、場合によっては金なんていくら払ってもいいんですよ。それを『いっしょに背負ってくれる』運転手であれば」

「確かに、重いですね・・・」

主任は続けた。

「まあそんな運転手でしたし、まだ若かったですからね。

あるとき取引先の社長から、その運転手を雇いたいという引き抜きの依頼があったんです。

ここよりかなり高い給与を提示されましたから、こちらも止めるわけにもいかず、彼に話したんです。

そうしたら、驚いたことに彼はそのオファーを断りました。

『もう少しここでやらせてください』

と言うんですよ」

「『もう少し』ですか」

「そう、『もう少し』って、いつまでここにいてくれるんや?

と聞くと、

『この仕事にプライドが持てるようになるまでです。そうしないと、きっとどこに行っても大した仕事は出来ないと思います』」

 車は静かに走り始めた。

「それがわたしなんです」

2014年5月15日木曜日

タクシーストーリー第9話~研修(2)

「ちょっとそこのコンビニに停められますか?」

研修2日目、山岸主任の言葉に俺は少し緊張した。

初日の研修は主任と2人で簡単な世間話をしながらのドライブのようなもので、業界の話はもちろん、今話題のニュースの話や阪神タイガースの抑え投手についてまでざっくばらんな会話をしながらも、不思議とリラックス出来なかった。

他愛のない会話の途中でちらっと助手席に座る主任の表情を見ると、眼鏡の下に鋭い目を光らせていた。

俺はこの人に試されている・・・

というちょっとしたストレスを感じていた。

研修2日目には、同じく今週より入社になる予定の新人で、坂井さんという人との同乗研修となった。

坂井さんは56歳とは思えぬほど肌の張りがあり、予想に反して豊富な髪の毛を携えていた。

「よろしくお願いします」

朝あいさつをすると、

「あ、あぁ、よろしく・・・」

テンションの低いリアクションやったが、その目つきと佇まいはキャパシティを超えるプライドを積んでいる重さを感じた。

最初に運転席に座った坂井さんは、運転中もほとんど口を開かず、それにつられるように助手席に座った主任も道の指示の他は沈黙を貫いていた。

何か張り詰めた空気を後部座席で感じていたときに、主任が突然コンビニで車を停めるように指示したのである。

恐らくここで自分と運転を交代するんだろう。

しかし、この状態で運転を交代しても俺は主任と一体どんな会話を交わせば良いのか。

昨日普通に会話しているのに、今日になって口を閉ざすのも不自然やし、

何より後部から坂井さんの視線に耐えられそうもない・・・

コンビニに駐車場はなく、坂井さんはハザードを焚きながら店の前の路上に車をきれいに寄せた。

今まで気づかなかったが、運転はうまかった。

「ちょっと待っててくださいね」

主任は車を降りると、コンビニに入っていった。

店から出てくると助手席に座りなおし、手に抱えた缶コーヒーを坂井さんと俺にそれぞれ渡した。

「ありがとうございます。運転代わりますか?」

俺はコーヒーを今飲むべきか、どうするか考えながら質問した。

「いや、いいですよ。もう少し坂井さんに運転してもらうから」

主任はそう言うと、もう一つ抱えていた袋に入っていた大きなまんじゅうを出して口にほうばり始めた。

運転席から坂井さんが少し軽蔑するような目つきで、その様子を見つめていた。

「坂井さんは事業をされていたんでしたね?」

突然の主任の質問に、坂井さんは少し驚いたように目を剥いた。

主任は面接に同席しているので、履歴書に目を通している。

「え、えぇ・・・それが何か?」


「わたしも事業をしていた経験があります。 ここに来る人はほとんどが元会社員です。組織の中でプライドを捨てることが出来ずに流れて来るパターンが多い」

「はぁ」

坂井さんは主任の意図が分からないという表情で生返事をした。

「しかし、元自営業の方は正反対です。現実社会の中でプライドをずたずたにされてここに来ます。 しかしあなたはまだプライドをここに持ってきている」

「・・・」

「別に過去を詮索する気はありませんよ。ただここはそういうところなんです。

いろんな人のプライドが渦巻いている。

中身のないプライドも、傷ついたプライドもあります」

「わたしのプライドは『傷ついている』ということですか」

主任はその質問には答えずに、袋からもう一つのまんじゅうを出して食べ始めた。

「事業の経験者、元社長ってのは金の使い方を知らない。

今財布に入っている金をどう使うか計算するのでなく、とりあえず自分の思うままに使った後にその金をどう工面するか考えます。

まんじゅう食べますか?」

主任は袋から出したまんじゅうを坂井さんと俺に差し出した。

「レジの前にあったやつを買い占めました。

全部買うから安くならないか?と聞いたらバイトの学生が不思議そうな顔してましたよ」

坂井さんが始めて少し笑みを浮かべた。