2014年5月28日水曜日

タクシーストーリー第10話~研修(3)プライド

「『プライド』という話をしましたが・・・あの(車を)出してください。こんなところに行灯つけた車をいつまでも停めておくわけにはいきませんから」

坂井さんは右にウインカーを下ろした。

「・・・どちらへ行きます?」

「任せますよ。好きなように走ってください」

坂井さんはウインカーを戻して、ハザードランプを点けた。

「任せるって・・・」

「ハハハ、わたしは実際の乗務で何度かこれを言われたことがあります。初めて言われたときは戸惑って、あなたと同じ対応をしました」

主任は身を乗り出して、タクシーメーターをポンと叩いた。

「しかしそれでこのように停まっていたらそれで終わりです。金を請求することは出来ない。走ってなんぼなんですよ。商売なんです。

『任せます』と言われたら、

『わかりました』と答えてどんどん走ったら良い。

2度目のときから、わたしはそうしました。

そうするとね、会話が弾むんですよ。そういうおかしな人は、いろんな面白い話を持ってる」

「そんなこと・・・」

「あるんですよ。タクシーに乗ってると、いろんな奇妙な人に出会う。

映画『タクシードライバー』では、不倫している妻を追いかけている乗客がメーター倒したまま現場のマンションにずっと停まってたみたいなシーンがありましたけど、

『そんなこと・・・』が本当にあるんですよ。

1万円のチップを平気で置いていく客とかね」

「はぁ・・・」

坂井さんはハンドルを両手で握ったまま、固まっていた。

「ただしね、とりあえずは走らないと何も起こらない。それがこの仕事なんです。

ちなみに(映画『タクシードライバー』の舞台)ニューヨークのアイドル1分のタクシー料金は40セント、1マイル(1.6キロ)走れば2ドルですからね。5倍稼げます。

とにかく走りましょう」

「わかりました」

坂井さんは、再びウインカーを下ろした。

「毎日いろんなことがありますから、それをどう捉えるかでも変わってきますけど・・・

ある若者がね、就職先がなくてこの世界に入ってきたんですよ。

彼はある程度名の知れた大学を出ていて、

入ってきたときは、『就職先が見つかるまで』なんて言ってました」

「『腰掛け』ですか」

後部座席から俺が首を突っ込んだ。

「そういうことですよね。

それでも彼は、ものすごく勉強してましたね。

1年ほどで周辺の地理知識はかなりのレベルに達してました。

それでも、『この仕事は難しいですね。言われた通り黙って走るだけなら何とかなりますが、乗客の"荷物”を運ぶのは堪えます。重過ぎて持ちきれないときもあって・・・』

と言っていました。”荷物”ってわかりますか?」

「トランクサービスのことですか」

俺が答えると、

「違いますよ。彼が言っていたのは、物理的な荷物ではなくて、乗客の人生の中で背負っている”荷物”ということですよね。

そんなものは見えないふりをして・・・物理的な荷物も見えないふりをする運転手もいますが・・・乗務をするのと、そこに突っ込んでいくのとでは、同じ仕事でもその難易度に大きな違いが出てくるんですよ」

「見えない”荷物”ですか」

「そうです。映画であの不倫妻を追う男は何故トラヴィスと車内で『いっしょに』その現場を見なければならなかったのか。客観的にはわかりますけど、そこにいる『重さ』を想像してみてください。

金じゃないんですよ。いや、場合によっては金なんていくら払ってもいいんですよ。それを『いっしょに背負ってくれる』運転手であれば」

「確かに、重いですね・・・」

主任は続けた。

「まあそんな運転手でしたし、まだ若かったですからね。

あるとき取引先の社長から、その運転手を雇いたいという引き抜きの依頼があったんです。

ここよりかなり高い給与を提示されましたから、こちらも止めるわけにもいかず、彼に話したんです。

そうしたら、驚いたことに彼はそのオファーを断りました。

『もう少しここでやらせてください』

と言うんですよ」

「『もう少し』ですか」

「そう、『もう少し』って、いつまでここにいてくれるんや?

と聞くと、

『この仕事にプライドが持てるようになるまでです。そうしないと、きっとどこに行っても大した仕事は出来ないと思います』」

 車は静かに走り始めた。

「それがわたしなんです」

2014年5月15日木曜日

タクシーストーリー第9話~研修(2)

「ちょっとそこのコンビニに停められますか?」

研修2日目、山岸主任の言葉に俺は少し緊張した。

初日の研修は主任と2人で簡単な世間話をしながらのドライブのようなもので、業界の話はもちろん、今話題のニュースの話や阪神タイガースの抑え投手についてまでざっくばらんな会話をしながらも、不思議とリラックス出来なかった。

他愛のない会話の途中でちらっと助手席に座る主任の表情を見ると、眼鏡の下に鋭い目を光らせていた。

俺はこの人に試されている・・・

というちょっとしたストレスを感じていた。

研修2日目には、同じく今週より入社になる予定の新人で、坂井さんという人との同乗研修となった。

坂井さんは56歳とは思えぬほど肌の張りがあり、予想に反して豊富な髪の毛を携えていた。

「よろしくお願いします」

朝あいさつをすると、

「あ、あぁ、よろしく・・・」

テンションの低いリアクションやったが、その目つきと佇まいはキャパシティを超えるプライドを積んでいる重さを感じた。

最初に運転席に座った坂井さんは、運転中もほとんど口を開かず、それにつられるように助手席に座った主任も道の指示の他は沈黙を貫いていた。

何か張り詰めた空気を後部座席で感じていたときに、主任が突然コンビニで車を停めるように指示したのである。

恐らくここで自分と運転を交代するんだろう。

しかし、この状態で運転を交代しても俺は主任と一体どんな会話を交わせば良いのか。

昨日普通に会話しているのに、今日になって口を閉ざすのも不自然やし、

何より後部から坂井さんの視線に耐えられそうもない・・・

コンビニに駐車場はなく、坂井さんはハザードを焚きながら店の前の路上に車をきれいに寄せた。

今まで気づかなかったが、運転はうまかった。

「ちょっと待っててくださいね」

主任は車を降りると、コンビニに入っていった。

店から出てくると助手席に座りなおし、手に抱えた缶コーヒーを坂井さんと俺にそれぞれ渡した。

「ありがとうございます。運転代わりますか?」

俺はコーヒーを今飲むべきか、どうするか考えながら質問した。

「いや、いいですよ。もう少し坂井さんに運転してもらうから」

主任はそう言うと、もう一つ抱えていた袋に入っていた大きなまんじゅうを出して口にほうばり始めた。

運転席から坂井さんが少し軽蔑するような目つきで、その様子を見つめていた。

「坂井さんは事業をされていたんでしたね?」

突然の主任の質問に、坂井さんは少し驚いたように目を剥いた。

主任は面接に同席しているので、履歴書に目を通している。

「え、えぇ・・・それが何か?」


「わたしも事業をしていた経験があります。 ここに来る人はほとんどが元会社員です。組織の中でプライドを捨てることが出来ずに流れて来るパターンが多い」

「はぁ」

坂井さんは主任の意図が分からないという表情で生返事をした。

「しかし、元自営業の方は正反対です。現実社会の中でプライドをずたずたにされてここに来ます。 しかしあなたはまだプライドをここに持ってきている」

「・・・」

「別に過去を詮索する気はありませんよ。ただここはそういうところなんです。

いろんな人のプライドが渦巻いている。

中身のないプライドも、傷ついたプライドもあります」

「わたしのプライドは『傷ついている』ということですか」

主任はその質問には答えずに、袋からもう一つのまんじゅうを出して食べ始めた。

「事業の経験者、元社長ってのは金の使い方を知らない。

今財布に入っている金をどう使うか計算するのでなく、とりあえず自分の思うままに使った後にその金をどう工面するか考えます。

まんじゅう食べますか?」

主任は袋から出したまんじゅうを坂井さんと俺に差し出した。

「レジの前にあったやつを買い占めました。

全部買うから安くならないか?と聞いたらバイトの学生が不思議そうな顔してましたよ」

坂井さんが始めて少し笑みを浮かべた。