今日はあの福知山線脱線事故からちょうど7年。
兵庫県に住むものとして、
何より運転手として、
毎年この日は考えさせられるというより、
考えなくてはいけないと感じる。
つい2日前(23日)には、
亀岡で登校中の児童の列に車が突っ込むという悲劇も起きている。
被害者の方のことを思うと胸が痛むが…
こういう事件を耳にして思うのは、
そのときその場にいたこと
何の罪もないかもしれないが、
そのときその場にいたことは事実であり、
そして7年前の事故も、
たまたまその一本前の電車に乗っていた人がいて、
たまたまその電車に乗り遅れた人がいる。
2日前の事故も、
たまたま一分、いや十秒前に現場を通った児童がいたはずである。
そんな人たちはきっと背筋も凍る思いだろうが。
物理的時間的にそのすぐ近くにいた人たちも、
そういう距離的には離れていた我々もある意味同じなのかと。
危険はすぐそこにあるのだけれど、
同時に信じられないような幸運の連続で生きている。
こんな仕事をしていると、
事故に遭遇する不運より、
何事もなかった一日の幸運
を実感するようになった。
4月23日(月) 景気40 晴
日照8.5 雨0.5 西南西5.6 高23.4 低11.3
営収 33,660(10,100-23,560)
10(4-6)回
10.50(4.50-6.00)時間
MAX 10,390
この日は昼間はさっぱり、
あまり暇なので、
パンクしていた自転車の修理をしようと、
自転車屋にタイヤを買いに行ったら、
なんと3,700円!
手痛い出費で、なんとか仕事で取り返そうとがんばって、
最後2本で作ったな(6点10点)
しかし乗車10回ではどうにもならへんわ
4月25日(水) 景気50 くもり
日照4.0 雨0 南南東7.0 高25.5 低10.1
営収 29,330(8,310-21,020)
16(7-9)回
11.50(5.50-6.00)時間
MAX 9,350
今日は会社で複数台の仕事に組まれていて、
本来朝早くから待機しなくてはならなかったが、
何とか難を逃れ、
通常勤務
特別な仕事って、
勉強になったりするので行きたいことは行きたいが、
金にはならない
そこそこもらえたりするが、
時間がかかるし、しがらみも出来る
時間の自由としがらみのなさこそがこの仕事の何よりの良いところ
なのだが、それを犠牲にしなくてはならないのである。
そんなことにやっと最近気づいた。
まあ悪いなりに粘って粘って(最後は隣りの駅まで入って)作れたかな。
人の運命って決まっているとは思わないけれど…
返信削除若い時に姓名判断の勉強した事がありました。
これはいわゆる「統計学」なんですが、自分も含めて回りの人
重大事故、犯罪に巻きこまれた人、又社会的地位のある人など
無作為に調べた事がありました。
100%ではないけれど、びっくりする結果でした。
私なんかビンゴもいいところでした。
人の運命って決まってるんや。
でも、運命って変える事もできる!
明石の歩道橋事故の時、嫁さんと子供事故の起こる直前、寸前に嫌な「虫の知らせ」を感じて、歩道橋に入るのやめて、遠回りして難を逃れました。
色んな手段で自分のある程度の運命を知ることができます、占いだけやなくて科学的な事まで。
運命的に悪い部分をもっている、感じている人は、
虫の知らせももちろん、名前を変えるのもひとつの手段、病院いくのも、習慣を変えたりも。
そうやって運命を変えるのも生きて行くのに
大事な事かなって感じています。
私?
毎日通勤で通う道があります。
仕事でもしょっ中行き来している道なんですが、
交差点でこっち向いているお地蔵さんがいます。
毎日手を合わしています。
すんません!陰気臭いコメントになっちゃいました。
タリホーさん
削除面白いですね。
>そうやって運命を変えるのも生きて行くのに
>大事な事かなって感じています
わたしはちょっと違う宗教観を持っています。
運命には従うべきと、例えそれがどんなものであっても。
タクシーって基本的にエリアを決めて営業するものですが、一日中、または一年中同じエリアに戻って張り付いて仕事するわけでもない。
一日の中でも、季節によってもエリアを少しずつ動きながら営業するものだと思います。
例えば昼間病院に張り付いて仕事をしていて、夕方になったらA駅へ入ろうと思っていたら病院から行かされたのは全く逆方向のB駅だった。
どうします?
そのままB駅に入りますよね。
その結果がどうであろうと、それは運命ということです。
不自然な動きをして失敗したときにはやはり後悔しますが、自然な流れの中で起こったことは受け入れるしかありません。
言ってみれば「神様が死ねと言ったらわたしはいつでも死にます」、そう平然と言えるように準備していくことかなと。もちろんそんなに簡単ではありませんが。