その日はいつもと変わらない一日で、昼間は秋晴れの素晴らしい天気だったが、夜になって冷え込んで車内のヒーターをオンにした。
このところ昼間はクーラーをつける日もあるが、夜はノズルをまわしてヒーターにすることが多い。
それでも震えるほどでもなく、車内でたたずんでスマホをいじるのが心地よい季節である。
地方都市のドライバーは駅に並んでなんぼ、長い列をじりじりと前に進んで、先頭から客を乗せる。
駅の待機が少ない朝の時間帯は数分で乗車されるが、夜になると駅の列も長くなり、動きも遅くなる。
通勤列車から降りてくる素面のサラリーマンがタクシーで帰宅することは滅多にない。
逆にこの時間はドライバーもコンビニやファミレスで食事を取るのに良い時間帯である。
こんな時間に駅の長い列に並ぶのも億劫なので、大体はコンビニでパンでも買って、お気に入りの川沿いの広い道でシートを倒し、スマホをいじる。
シートを倒すと、暗くなった空にきれいな月が浮かんでいた。
「満月か…」
スマホを助手席に置いて、しばし月をながめていた。
昨晩ゲームにはまって遅くなったこともあり、そのうち睡魔に襲われウトウトしていたとき、ふと後部座席の窓をたたく音がした。
歩道は広いものの、ほとんど人通りがないからこの場所で休憩をしているのだが、突然のことで我に返るのに時間がかかった。
「あっ…どうぞ」
若いというより、学生…もしかしたら高校生くらいの男性が後部座席のシートに深く腰掛けて、息をついた。
「ふーっ!」
「えー、どちらまで?」
「月…きれいですね」
「…はい」
若者は窓の外をながめている。
タクシードライバーの習生として、行き先を聞くまで客の投げかけた会話に乗ることが出来ない。
気の短いドライバーなら重ねて行き先を聞くが、慣れてくると、すぐに行き先を言わない客は何か訳ありで、しつこく聞くとトラブルになることを警戒する。
「ブルームーンて知ってます?」
「…いえ」
「その月で2回目の満月、今日がブルームーンなんですよ」
「そうなんですか」
イライラしたら負けである。
「降りてもらえますか」なんて言った日にはブチキレる客もいるし、ドアを切って(閉めて)しまったからには簡単に降りてもらうことは出来ない。
少し間をおいて、我々にとって重要であり、当たり前の質問をするのに絶妙なタイミングを探す。
「どちらへ行かれます?」
若者はその質問が聞こえているのか、そもそも自分がタクシーの後部座席に座っていることを認識しているのかさえ疑問に感じるような視線を窓の外に向け、遠くの空を見つめている。
「僕ね、親父殺してしまいました」
「…はっ?」
さすがにこの展開は予想していなかった。
客が突拍子もない話題を振って来たときには、大げさに反応するのがタクドラの模範解答である。
しかし、この場合は客の年齢や、状況、そしてその内容からして模範解答が見つからない。
おそらく教科書にも載っていないパターンである。
「殺してしまったんですよー・・・」
デクレッシェンドでだんだんと語尾が小さくなる。
それは逆にその言葉の現実味を強くさせるようで、少し背筋が震えた。
「いや、なんて言ったら良いんですかね…これはタクシーで、お客さんの行きたい場所にお金をもらって車を走らせる業務なんです。何があったのか、それが本当なのかどうか…いや本当でないということにしましょう。いろんなことを言うお客さんがいますから、お客さんの行き先とそのルート以外の話について責任を取る必要は少なくとも我々にはないんです。だからあの…行き先を教えてもらえますか?」
この思わぬ展開になる前は、休憩中とは言え業務として無駄な時間を使っていることにストレスを感じていたが、今は全く違うストレスに押しつぶされそうになっている。
「本当かどうかですか。家を飛び出してきて、呆然としてここまで歩いてきましたから、もしかしたら夢かもしれません。でも…とりあえず新神戸の駅まで行ってもらえますか」
もし夢なら、俺もその彼の夢の中にいるということか…、新神戸と言えばここから約1万円ほどメーターの出る場所である。
そこから東京か、または九州にでも逃げようということか。
「新神戸ですか…ところで自宅はどこなんですか(どこから歩いて来たんですか)?」
「春勝町です」
ここから5キロほどの場所である。
話の内容から個人情報を伏せたくなるとも思えるが、そこまで冷静ではないのだろう。
「春勝ですか。本当なのか、夢なのか、家に帰って確認してみたらどうですか?」
「確認して、本当だったらどうするんですか?」
「それはやはり現実としっかり向き合わないといけないでしょう。逃げたらあかんよ」
「行き先やルート以外の話は関係ないって言ってたやないですか」
この男、思ったより冷静である。
俺は彼の自宅の方向、指定された行き先(新神戸)と逆に車を走らせた。
若者は気づいていないようだったが、少しして見慣れた風景が見えたのか、スマホをいじりだした。
「どこに向かってるんですか?」
「一回家に帰った方が良いよ。金は要らないから」
「…」
「住所教えてくれる?」
「…」
「何があったん?」
若者はスマホをいじる手を止め、また窓の外に目を向けた。
「ゲームをしてて…毎晩スマホのゲームをしてて、夜遅くなって、親父に怒られて、スマホを取り上げられたんです。親父が寝ているときにそのスマホを取り返そうと寝室に行ったんですが、なぜか手にナイフを持っていて…寝ている親父を…そこ右曲がってください」
「分かりました」
アクセルに少し力が入った。
父親を刺した?という割には、若者は返り血を浴びた様子もない。
指示通り車を走らせると、住宅街の中でも割と大きめの家の前に車をつけた。
洋風の邸宅のリビングらしき部屋には灯りがついている。
「ありがとうございます」
本来はこちらが言わないといけないセリフを若者は言って、メーター料金より少し多い2千円を差し出した。
「いえ、これは…」
「受け取ってください。僕も家に帰りたかったのかもしれません」
客の言った行き先と違う場所に来て料金をもらうのは気が引けるが、タクシーが走るからにはメーターは倒さないといけない。
俺は横目にその大きな家を見て、これ以上断るのも野暮だと感じてその2千円を受け取った。
「ありがとうございました」
ドアを開けると、若者はもう一度深く礼を言った。
「ハッピーハロウィーン!」
なんだか辻褄の合わない、自分でもよく分からない言葉を返して、ドアを閉めた。
「ふぅー!」
と息をついて、その場で少しシートを倒した。
気を失ったのかもしれない。
気づくと、いつもの川沿いの路肩で目を覚ました。
助手席にはコンビニで買ったチョコクロワッサンの袋が開いていて、ドリンクホルダーには冷め切ったコーヒーが置かれていた。
”ハロウィーン”の夜は、変な輩が多くなるからなるべく避けたい日です。
返信削除して、これはフィクション?。
どうでしょう(笑)
削除素晴らしい!
削除wonderful story.
暴言トランプよりも、失言バイデンよりも 現実の夢かな。
よいさ ヨイサ ホイサ ホイサ
今日も生存確認だ。
ありがとうございます!
削除