「『プライド』という話をしましたが・・・あの(車を)出してください。こんなところに行灯つけた車をいつまでも停めておくわけにはいきませんから」
坂井さんは右にウインカーを下ろした。
「・・・どちらへ行きます?」
「任せますよ。好きなように走ってください」
坂井さんはウインカーを戻して、ハザードランプを点けた。
「任せるって・・・」
「ハハハ、わたしは実際の乗務で何度かこれを言われたことがあります。初めて言われたときは戸惑って、あなたと同じ対応をしました」
主任は身を乗り出して、タクシーメーターをポンと叩いた。
「しかしそれでこのように停まっていたらそれで終わりです。金を請求することは出来ない。走ってなんぼなんですよ。商売なんです。
『任せます』と言われたら、
『わかりました』と答えてどんどん走ったら良い。
2度目のときから、わたしはそうしました。
そうするとね、会話が弾むんですよ。そういうおかしな人は、いろんな面白い話を持ってる」
「そんなこと・・・」
「あるんですよ。タクシーに乗ってると、いろんな奇妙な人に出会う。
映画『タクシードライバー』では、不倫している妻を追いかけている乗客がメーター倒したまま現場のマンションにずっと停まってたみたいなシーンがありましたけど、
『そんなこと・・・』が本当にあるんですよ。
1万円のチップを平気で置いていく客とかね」
「はぁ・・・」
坂井さんはハンドルを両手で握ったまま、固まっていた。
「ただしね、とりあえずは走らないと何も起こらない。それがこの仕事なんです。
ちなみに(映画『タクシードライバー』の舞台)ニューヨークのアイドル1分のタクシー料金は40セント、1マイル(1.6キロ)走れば2ドルですからね。5倍稼げます。
とにかく走りましょう」
「わかりました」
坂井さんは、再びウインカーを下ろした。
「毎日いろんなことがありますから、それをどう捉えるかでも変わってきますけど・・・
ある若者がね、就職先がなくてこの世界に入ってきたんですよ。
彼はある程度名の知れた大学を出ていて、
入ってきたときは、『就職先が見つかるまで』なんて言ってました」
「『腰掛け』ですか」
後部座席から俺が首を突っ込んだ。
「そういうことですよね。
それでも彼は、ものすごく勉強してましたね。
1年ほどで周辺の地理知識はかなりのレベルに達してました。
それでも、『この仕事は難しいですね。言われた通り黙って走るだけなら何とかなりますが、乗客の"荷物”を運ぶのは堪えます。重過ぎて持ちきれないときもあって・・・』
と言っていました。”荷物”ってわかりますか?」
「トランクサービスのことですか」
俺が答えると、
「違いますよ。彼が言っていたのは、物理的な荷物ではなくて、乗客の人生の中で背負っている”荷物”ということですよね。
そんなものは見えないふりをして・・・物理的な荷物も見えないふりをする運転手もいますが・・・乗務をするのと、そこに突っ込んでいくのとでは、同じ仕事でもその難易度に大きな違いが出てくるんですよ」
「見えない”荷物”ですか」
「そうです。映画であの不倫妻を追う男は何故トラヴィスと車内で『いっしょに』その現場を見なければならなかったのか。客観的にはわかりますけど、そこにいる『重さ』を想像してみてください。
金じゃないんですよ。いや、場合によっては金なんていくら払ってもいいんですよ。それを『いっしょに背負ってくれる』運転手であれば」
「確かに、重いですね・・・」
主任は続けた。
「まあそんな運転手でしたし、まだ若かったですからね。
あるとき取引先の社長から、その運転手を雇いたいという引き抜きの依頼があったんです。
ここよりかなり高い給与を提示されましたから、こちらも止めるわけにもいかず、彼に話したんです。
そうしたら、驚いたことに彼はそのオファーを断りました。
『もう少しここでやらせてください』
と言うんですよ」
「『もう少し』ですか」
「そう、『もう少し』って、いつまでここにいてくれるんや?
と聞くと、
『この仕事にプライドが持てるようになるまでです。そうしないと、きっとどこに行っても大した仕事は出来ないと思います』」
車は静かに走り始めた。
「それがわたしなんです」
坂井さんは右にウインカーを下ろした。
「・・・どちらへ行きます?」
「任せますよ。好きなように走ってください」
坂井さんはウインカーを戻して、ハザードランプを点けた。
「任せるって・・・」
「ハハハ、わたしは実際の乗務で何度かこれを言われたことがあります。初めて言われたときは戸惑って、あなたと同じ対応をしました」
主任は身を乗り出して、タクシーメーターをポンと叩いた。
「しかしそれでこのように停まっていたらそれで終わりです。金を請求することは出来ない。走ってなんぼなんですよ。商売なんです。
『任せます』と言われたら、
『わかりました』と答えてどんどん走ったら良い。
2度目のときから、わたしはそうしました。
そうするとね、会話が弾むんですよ。そういうおかしな人は、いろんな面白い話を持ってる」
「そんなこと・・・」
「あるんですよ。タクシーに乗ってると、いろんな奇妙な人に出会う。
映画『タクシードライバー』では、不倫している妻を追いかけている乗客がメーター倒したまま現場のマンションにずっと停まってたみたいなシーンがありましたけど、
『そんなこと・・・』が本当にあるんですよ。
1万円のチップを平気で置いていく客とかね」
「はぁ・・・」
坂井さんはハンドルを両手で握ったまま、固まっていた。
「ただしね、とりあえずは走らないと何も起こらない。それがこの仕事なんです。
ちなみに(映画『タクシードライバー』の舞台)ニューヨークのアイドル1分のタクシー料金は40セント、1マイル(1.6キロ)走れば2ドルですからね。5倍稼げます。
とにかく走りましょう」
「わかりました」
坂井さんは、再びウインカーを下ろした。
「毎日いろんなことがありますから、それをどう捉えるかでも変わってきますけど・・・
ある若者がね、就職先がなくてこの世界に入ってきたんですよ。
彼はある程度名の知れた大学を出ていて、
入ってきたときは、『就職先が見つかるまで』なんて言ってました」
「『腰掛け』ですか」
後部座席から俺が首を突っ込んだ。
「そういうことですよね。
それでも彼は、ものすごく勉強してましたね。
1年ほどで周辺の地理知識はかなりのレベルに達してました。
それでも、『この仕事は難しいですね。言われた通り黙って走るだけなら何とかなりますが、乗客の"荷物”を運ぶのは堪えます。重過ぎて持ちきれないときもあって・・・』
と言っていました。”荷物”ってわかりますか?」
「トランクサービスのことですか」
俺が答えると、
「違いますよ。彼が言っていたのは、物理的な荷物ではなくて、乗客の人生の中で背負っている”荷物”ということですよね。
そんなものは見えないふりをして・・・物理的な荷物も見えないふりをする運転手もいますが・・・乗務をするのと、そこに突っ込んでいくのとでは、同じ仕事でもその難易度に大きな違いが出てくるんですよ」
「見えない”荷物”ですか」
「そうです。映画であの不倫妻を追う男は何故トラヴィスと車内で『いっしょに』その現場を見なければならなかったのか。客観的にはわかりますけど、そこにいる『重さ』を想像してみてください。
金じゃないんですよ。いや、場合によっては金なんていくら払ってもいいんですよ。それを『いっしょに背負ってくれる』運転手であれば」
「確かに、重いですね・・・」
主任は続けた。
「まあそんな運転手でしたし、まだ若かったですからね。
あるとき取引先の社長から、その運転手を雇いたいという引き抜きの依頼があったんです。
ここよりかなり高い給与を提示されましたから、こちらも止めるわけにもいかず、彼に話したんです。
そうしたら、驚いたことに彼はそのオファーを断りました。
『もう少しここでやらせてください』
と言うんですよ」
「『もう少し』ですか」
「そう、『もう少し』って、いつまでここにいてくれるんや?
と聞くと、
『この仕事にプライドが持てるようになるまでです。そうしないと、きっとどこに行っても大した仕事は出来ないと思います』」
車は静かに走り始めた。
「それがわたしなんです」